お願いです。どうか絶望しないで下さい。何故なら“あなたは、この世にのぞまれて生まれてきた大切な人”( マザーテレサ)だからです。
 私は、私に託された方々を決して諦めません、そして彼らの御役に立つ為に自分自身を諦めません。
 この先駆的決意性のもと、私は、 あなたとともに逆風に挑んでゆく “風に向かって立つライオンでありたい“のです。


                          院長 拝

“あなたや日本を捨てたわけでは無く、
僕は今を生きる事に思い上がりたくないのです。
空を切り裂いて落下する滝のように
よどみない生命を 僕は生きたい
キリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空
僕は風に向かって立つライオンでありたい……”

    さだまさし“風に 立つライオン”より

        “風に向かって立つライオン“

 過酷な出来事が重なるとき、人は因果論的な思考になります。あまりの理不尽さに押しつぶされ、自分らしい考え方が出来なくなるのです。過去の因果が今にたたり、という発想。その観点に立ち続けるならば、未来は無く、ただ金太郎あめのようにどこまで行っても、過去に基づく過酷な現在が連綿とつながるのです。そこには希望は無く、キルケゴールのいう死に至る病である、絶望が存在します。
 絶望からの脱出。それは因果論的現在から脱却する事です。そこでハイデガーのいう先駆的決意性が必要になります。過去があるから現在があり、そして未来が規定されて行くのではありません。来るべき自分の存在の在り方を想定し、現在を組み立てて行くこと、それが先駆的決意性であります。決意をするに当たって、その決意の是非が問われますが、そこに良心の叫びが関与するのです。その決断でお前は良いのかと。先駆的決意性によって、因果論的現在は、未来につながる現在、即ち希望に繋がる現在になるのです。