それを夢と呼んではいけない 
希望ではなく 期待でもない

信じて そして待つことを 
私は約束と呼びたい

それを嘘と呼んではいけない 
多分ではなく きっとでもない

信じて 歩き始めたら 
それは愛に変わってゆく

さだまさし ”夢と呼んではいけない” より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうでもいいのですけどね…。


ひとしきり自分の今の苦しさをお話して下さった後、彼女はそう言った。
彼女は、それは自分自身で解決すべき問題であり、私に話しても解決できないことを自覚しているのだ。

確かに「眼に見えるもの」として立ち向かうべき事は厳然としてそこにある。

その事に因るしんどさ。それは時が解決してくれるだろう。(一時的に医療的な介入が必要なこともあるが。)


彼女が自分自身の問題として悩み苦しんでいる状態、

換言すれば自分の存在意義は何かという問いに打ちのめされている状態を病気と呼んで良いのだろうか?


敬愛する西田幾多郎先生の自覚的一般者の理論に基づき考えてみましょう。


自己を意識的に自覚していない人を一般者と呼びますが、一般者は自然界にある対象を見ているだけの存在です。


自己が意識作用的に自覚するよう になると、自己は自己自身を対象とするようになり、

心理的、内面的世界を対象とする自覚的一般者となります。

意識作用的とは 価値実現の作用で、全てを認識対象として価値の世界に入れようとする作用です。

つまり外界と同様に自分自身の価値を推し測ろうとする存在になるわけです。


自覚的自己をさらに深く、“もの”(ノエマ)では無く、“こと”(ノエシス)に向かって(ノエシス的方向)、

言い換えれば“見えるもの”から“見えないもの” に超越していくとき、自己自身を直観する叡智的自己に到達するのです。


西田は叡智的自己を、知的叡智的自己、情的叡智的自己(芸術的直観の自己)、意的叡智的(道徳的自己)の3つに分けています。


ノエシス的(内在的)超越の極限と考えられる道徳的自己においてはじめてノエ マ(もの)はノエシス(こと)の内に没し去って、

自己自身の内容 を吟味する存在となります。


道徳的自己は「悩める自己」で、自己を不完全として理想を追い求めます。


何故なら、道徳的自己は価値のあるもの(善)を見ようとするからです 。しかし、他方では反価値的なもの(悪)に向かう自由意志も存在しています。

結果、自己を悪として痛感し、理想と現実の間で自己分裂し苦悩します。

即ち、道徳的自己は内省が出来すぎる故、高い叡智を持ちながら、価値的なもの(善)と反価値的なもの(悪)との間で苦悩する「悩める魂」なのです。

夜明け前(絶対無 [ぜったいむ])の暗黒的存在。
 
自己を見ることが深ければ深いほど、自由になればなるほど、自己自身の矛盾に 苦しみます。

そのような矛盾を脱して真に自己自身の根底を見るのが 絶対無の自覚なのです。

深い罪の意識をもち、 深く自己自身の中に反省し、反省の上に反省を重ねて、反省そのものが消え去るとともに、真の自己を見ることになるのです。

絶対無 [ぜったいむ]。夜明けですね。


悩める自己,悩める魂。

夜明け前の存在である、道徳的自己である彼女は病人でしょうか? 


内省の深さ故、迫りくる現実の重さ故、抑鬱的になったり、しんどさを感じることはあります。


夢では無く,嘘でも無く、彼女は病的状態ではない。


蛹から脱皮する前の 苦悩する美しき蝶的存在。


夜明け前が一番暗いのです。


一緒に夜明けを信じて待ちましょう。


信じて待つ事を約束とよぶなら、約束しましょう。


夜明けは必ず来ます。


しかし、夜明けが目的ではありません。


夜が明けてから、成すべき事が始まるのです。


一緒にその準備を致しましょう。私自身も、まだ夜明け前。


信じて歩き始めましょう、それが愛に変わるように...。     院長 拝